今月の物語


 

 

児童小説「幽霊物語」から



            

  『濡れた床』


梅田貨物操車場は、全国から到着した貨車を駅止めの貨車と、そこから先に走ってゆく貨車とに分けている。駅止めの貨車は、ディーゼル機関車で貨車到着ホームに運ばれる。

操車場は線路がポイントで分かれて扇型で伸び、両端が見えなくなるくらいに拡散している。真ん中といちばん端の線路2本はさらに先へ伸びてコンテナセンターへと続き、そこでまた大きな扇型の操車場を作っていた。

このコンテナセンターの引込み線の始まりのあたりを道路が横切っているために、踏切が二ヵ所あった。1本は真ん中から伸びる東に、もう1本は300メートルほど離れた西にあって東を一番踏切、西を二番踏切と呼んでいた。

二番踏切から20メートルくらい北にはいった場所に粗末な、農機具小屋のような作業員用木造便所が建っていた。

 

 

1962年、僕は高校を卒業すると星月運送という会社に入社した。会社は大型小型トラックで一般の荷物運送をするが、長距離運送もあれば引っ越し、チャーターもやっていた。主は貨物列車で運ぶ荷物を集荷配達する運送であった。

トラックで得意先から集荷した荷物は、梅田貨物操車場貨物駅ホームに運ばれ、行き先別に降ろす。仲士と呼ばれる作業員が貨車に積み込み、貨車は連結されて発射して全国に散らばってゆく。

新入社員の研修を終えたあと、僕を含む3人はワム、ワキ、トムといった貨車に積載する明細書を作製する仕事の、U貨物駅ホーム発着ホーム内にある支店に配属された。急ごしらえ2階建て、荒っぽいプレハブの事務所だった。

そこには便所がなく、高架橋横にある当時国鉄貨物駅事務所のを借りていた。しかし気を遣ってゆっくり用は足せない。

「100メートルほど離れた二番踏切近くに便所があるぞ。ちょっと薄暗いけどな」

ある日、同僚のひとりが教えてくれた。

その便所へ行くためには何本もの線路を横切らないといけない。危険だけれどもさぼれる楽しみもあって、危ないとも片道100メートルを遠いとも思わなかった。

こうして便所通いが始まった。

3ヵ月ほど経ったある日、

「ここは、いつも濡れてるな」

便所の床を見た同僚が呟いた。

濡れたところをまたいで僕は頷いた。

便所は操車場内の作業員が毎日交代で、水をホースでぶっかけるだけの簡単な掃除をする。時間が経つと、入口や無双窓からの風、わずかに差し込む日光で濡れたところは乾燥してゆく。ところが昼になっても夕方になっても、そして日が落ちても真ん中の床だけは乾かなかった。

「ここは、いつも濡れてるな」

同僚の台詞が、くるたび気になりだし、

「不思議だよな」

「地盤沈下したからだよ」

「手抜き工事の結果かもな」

などと話していた。

残業のときは、夜も使った。裸電球がひとつ、泣きそうな色で灯り濡れた床を忌まわしい過去がひとつふたつあったように哀しく照らしていた。

かんかん、かんかん

連結された長い貨車が、レールの継ぎ目を車輪で響かせながら走ってゆくと、床の水がいつまでも小刻みに震動した。

「便所はどこも寂しい。特に、ここは気味悪いほど寂しいな」

と、僕が言うと、

「昼でも、ひとりで来たくないな」

ふたりが、手を振った。

それから1週間が過ぎた夕暮れ、3人で便所に行くといつも濡れていると言った奴が、

「この水溜り、なにかこう、模様になってないか?」

と、空中で手を動かせた。

僕たち3人は入口に並び、あらためて眺めた。

「ひとの姿かなあ」

「太った女みたいだ」

「赤ん坊をおぶったお母さん……」

赤ん坊をおぶったお母さんが俯いて歩いているように見える、とひとりが言ったそのとき、口笛を吹きながら作業員がはいって来た。

そのひとは、僕たちの話をききながら小便をすませ、

「君らも、水溜りがそう見えるか」

と言って水道栓をひねった。

「見えます」

3人は声をそろえて返事した。

作業員は手を洗いながら、

「3年まえの冬になるかなあ。この便所が出来るまえ、ここは踏切だったんだ。赤ん坊を背負った母親が投身自殺をしたんだよ。その母子は……」

話を最後まできかず、僕たちは青い顔で飛び出した。そしてもう二度とその便所へは行かなかった。

事務所に戻って仲間に身振り手振りで話した。

「ふ〜ん」

誰も驚かない。

二番踏切で母子自殺があったことを知らなかったのは、どうも僕たち3人だけのようだった。そういえば事務所の仲間はその便所は使わなかったし、使い始めて3ヵ月も経つというのにあの作業員の他は誰とも会わなかった。ということはあまり使われていなかったのだ。

「知ってたんなら、教えてくれてもよさそうなものじゃないですか」

と、主任に迫ると、

「知ってて、あの便所を使ってるものとばかり思ってたよ。第一おまえらも、寂しいとか、濡れた模様が母子に見えるとか、気味悪いとかってなんで俺に言わなかったんだ。きけば教えてやったぞ」

と、反対に叱られた。

叱られながらも、なぜか母子が気になり事情を知りたくなった。

「二番踏切の母子自殺を、教えてください」

その日から、いろんな作業員にきいてまわった。

「新聞で、読んだ」

「その母子は、この近くに住んでてな」

「事故現場を見たよ」

というふうに、ほとんどが知っていた。

目撃者もいた。

話をつないでみると、こうなった。

10 年まえに自殺した母親は、出産して半年ほどしたころ夫が交通事故で急死した。葬式がすんだその夜、将来を悲観した彼女は赤ん坊をおぶって二番踏切に立ち、 走って来た貨物列車に身を投げた。2人の身体は、包丁で大根を切ったときのように鋭角で、不思議にも血は一滴も流れず線路のあちこちに散らばった。赤ん坊 の右手が、いつまでもぴくぴくと動いていたらしい。

世間がその事件を忘れかけたころ、コンテナセンターへはいるポイントが新たに出来て踏切が南のほうへ少しずれた。

元の踏切だった場所に空間が生まれて、作業員用の便所が建った。建ったその日から、床にねんねこ姿の模様が現れたのだった。

 

 

3年後、ある事情で僕は会社を辞め他県へ転居した。

月 日は流れ、旅からの帰途、車でたまたまこの踏切にさしかかった。昔は車も少なく昼でも通行人はあまりなかったが、30年ぶりに見るいまは一番踏切や二番踏 切は車のラッシュである。高速道路が近くをとおり、周囲にビルが林立し、街灯が設置されて賑やかになっていた。懐かしさから車を道路端に止めて貨車の発着 場を眺めた。

貨 物がトラック便で運ばれだしてから、燃料や特殊液体を運ぶタンク車を除いて次第に貨車便は少なくなり、ついには使われなくなってコンテナが輸送の主になっ た。操車場も線路も貨物ホームも閑散として、錆びたように思えた。引き込み線路は間引きされ、跡地にビルが建ち駐車場が出来たりしていた。

床が濡れていた木造の便所はどうなったのかと探すと、その場所は運送会社3社がはいった5階建てビルになっていた。と同時に、そのビルの便所がどんなふうになっているのか知りたくなり、厚かましいとは思いつつ見たい一心で、

「トイレ使わせてくださいませんか」

事務所にはいって頼んでみた。

「どうぞ、あちらです」

女性事務員が階段そばの便所を指さし、

「中では、足元に気をつけてください」

と、注意した。

「えっ?」

振り返った僕に、

「滑って、よく怪我されますので」

と、言った。

窓から外を見ると、このビルは作業員用便所があったところ、つまり、元の二番踏切であることがすぐにわかった。ここで母子が鉄路に身を投げた。その上に初めは木造の便所が建ち、つぶして今度はビルが建った。ビルになっても、またその場所は便所になっている。

設計上そうなったのか、それとも偶然なのか。あるいは何かの因縁か。なんとも不思議な感じがした。

ドアを開けた。

中は当然のことだがコンクリートをうっただけの粗末な便所ではなく、白いタイル張りで清潔になっている。

そして床を見た。

「あっ」

僕は悲鳴を飲み込んだ。

うっすらと、母親がねんねこで赤ん坊をおぶった30年まえと同じ模様で濡れていたのである。

「足元に気をつけてください」

と注意してくれた事務員の意味がよくわかった。濡れた床を踏んだひとが滑って怪我をするのは、濡れた床は床ではなく母子を踏んでいるのではないか。僕は、飛び出したあの日と違って頭をたれ、冥福を祈った。

便所を出たとき、さっきの事務員が2階から降りて来た。僕は過去を話し、

「供養のための花を供えては……」

と、提案しようかどうか迷ったまま彼女を見つめていた。

















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